高橋(2005)は、三家老の免許状について小野村庄屋の次郎兵衛が郡上藩役人の熊崎幸左衛門に手渡したとする。 この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた。
13宝暦7年12月3日(1758年1月12日)、郡上八幡城下にやって来ていた甚助は藩側に捕らえられ 、全く吟味もなされないまま宝暦7年12月18日(1758年1月27日)、穀見の刑場でひそかに打ち首にされた。
また、地域的な偏在も日立つ。
農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した。 そのため駕籠訴の後も、他の5名の駕籠訴人と異なり村預けの処分も下されることなく、一揆勢の江戸への飛脚などとして活躍を続け、後の評定所の裁判の際も罪を免れることになった。
15高橋(2005)26頁• 大賀(1980)184-185頁、大石、榎森(1996)211頁• 郡上での動き [ ] 郡上藩主金森頼錦は、宝暦6年(1756年)7月にに伴う郡上帰国を予定していたが病気により延引され、宝暦6年9月7日(1756年9月30日)に郡上へ戻った。
野田、鈴木(1967)55-56頁、高橋(2005)43-46頁、白石(2005)150-159頁• 17世紀末からは、大規模で広範囲にわたる一揆であり、領主に対して年貢の減免や専売制の廃止を訴える「 惣百姓一揆」が発生してきました。
11少しでも説明が必要になります。
しかし箱訴によって開始された評定所での吟味は、一転農民たちにとって極めて厳しいものになった。 白石(2005)579-580頁• 宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らにを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。
12その際、競売には同じ村の者でしかも立者の参加しか認められず、他村の者、寝者は競売から排除された。
帳元元締めの歩岐島村四郎左衛門の家が藩足軽、寝者に押し入られ、金銭や帳面を奪い取ったことを聞きつけた近隣の一揆勢は、さっそく大挙して駆けつけ、久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を捕え、逆に四郎左衛門宅に監禁した。
この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。
郡上藩江戸家老の伊藤弥一郎らは対応策を練っており、農民代表らの対応に当たった用人の宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸に呼び寄せたあげく、最終的には農民代表全員を牛込御箪笥町の藩別邸に監禁した。 白鳥町教育委員会(1976)390頁、白石(2005)212-213頁• 白鳥町教育委員会(1976)389頁、白石(2005)209-210頁• 白鳥町教育委員会(1976)390頁、白石(2005)216-218頁• 加増された領地は郡上一揆の判決で西丸若年寄を罷免され、改易された本多忠央の領地であったのであり、また将軍世子付きの西丸若年寄を務めており、家治が将軍となった暁には権力の座に就くことが予想された本多忠央の失脚は、田沼意次が更に権勢を拡大させる要因の1つとなった。
5その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。
」 こんな感じで教えます。 白石(2005)51-53頁• ここから水戸学と呼ばれる独特の尊王論が生まれ、幕末の動乱に影響を与えることとなる。
その他立者、寝者の中立の立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた。
白石(2005)232-236頁• つまり、 一揆の間に改革がある。